1.父の怪我
マッキンリーから帰ってきて2ヶ月が過ぎようとしていました。
帰国後、地元福島の新聞やTV、ラジオの取材、そして、各地区の教育委員会からの後援の依頼などがあり、あっという間の2ヶ月でした。
今考えると、マッキンリーの成功で、いっぱしの登山家になったような錯覚をしていたような気がします。
とりあえず、お金をためてどこかの山に登りたかったのです。
父の知人の紹介で、カナダのウイスラーのスキースクールで11月から5月くらいまで働き、また、どこかの山に登るという計画を立てていました。
そんな状況で、その頃、マッキンリーぼけ?しながら父の仕事をいやいやながらしょうがなく手伝っていたのです。
忘れもしないマッキンリーから帰国した昭和63年8月18日。
私の人生が180度変わった日です。
本当は、この日まで父の会社「磐梯園芸センター」はお盆休みのはずでした。
当時、猪苗代はバブルの真っ只中で、零細も零細で、しかも名前が「磐梯園芸センター」、
というその辺の町の花屋さん?
見たいな会社が、リゾートマンションの造成工事と基礎の土工事を大手ゼネコンである「フジタ」から受注してしまったです。
そのプレッシャーもあったのか定かではありませんが、19日から仕事始めだったが、前日の18日に駆りだされ、重機の運搬など、次の日の段取りを親父と二人でやっていたというか、無理やり手伝わされていました。
1台目の重機を運び終わり、私が現場に残り、重機に乗り仕事をしていると、フジタの監督さんが血相を変えて近寄ってきたのです。
「親父さんが事故にあったみたいだから、すぐに病院に行くように!」
何のことか分からず、車に飛び乗り、会津中央病院へ向かおうと、現場の道路を下っていくと、ちょうど救急車が目の前を走っていきまいした。
直感的に親父が乗っていると思い、後を追ったのです。
案の定、後ろの窓から母が手を振ってるのが見えました
5分ぐらい走ったでしょうか、後ろから白バイが追いかけてきました。
何のことか分からずに走っていると、横に並ばれ、止まれという。
「スピード違反」
救急車を追いかけてきたのだから恐らく100キロくらい出していたでしょう。
「親父が大変なんだ、先導してくれ!」
と訳の分からないことをいっていたような気がします。
そこへ、一緒に仕事をしてもらっていた近所のおじちゃんが来て、事情を説明し釈放?してもらいました。
今考えれば、そのときの白バイの人も良く見逃してくれたもんだと思います。
また、猛スピードで救急車を追いかけました。
すると、数キロは知ったところで、その救急車が止まっていて、母親が早く来いと手を振っているではありませんか。
不思議なもので、あれだけあせっていたのもかかわらず、
「あぁ、もう、駄目だから待っててくれたんだ・・・・」
と、急に冷静になり、ゆっくりと車を止めて、現実を受け止めようとしていた自分がいました。
実は、ドクターカーといって、重症患者の場合、医者を乗せた救急車が迎えに来て、乗り換えをするんだそうです。
私とほぼ同時にそのドクターを乗せた救急車が到着し、親父を載せたタンカーが出てきました。
乗り換えるとき、親父の手がぶらっと下がっていたので、これはかなりやばいなと思いました。
病院について、どれくらい待合室に待たされただろうか。
あれだけ時間が長く感じた日もありません。
そして、ドラマのように、親族の方はいらっしゃいますかと呼ばれ、父に面会したが、
意識はかろうじてあったが何を話しているのか聞き取れませんでした。
聞き取れたのは、私の名前だけ。
その後、医者から、怪我の状況と診断結果の説明をされたが、耳を疑うような結果だでした。
「残念ながら、お父さんの高い確率で半身不随になります。また、このような怪我を負った人は色々な合併症が出て、1年以内に死に至るケースがほとんどです」
良く覚えていないが、多分、こんなことを言われたように記憶しています。
「血の気が下がる思い」というが、その瞬間、頭から一気に足元に血が下がり、立っていられなかったほどのショックを受けました。
この日から、一週間か10日ぐらいは、記憶があいまいだが、ほとんど寝てなかったと思います。
次の日、フジタの現場事務所に相談に行ったが、フジタの人たちは、心から心配してくれて、応援するから現場を続けなさいと、、、
同時に、近所の住宅の基礎工事もやっていたので、フジタの現場が終わると、電気をつけて基礎工事、夜中には、
毎日親父がうわ言で呼んでいると電話が来て、病院、、、そしてフジタの現場、、の毎日。
フジタの現場で、重機に乗りながら寝たいたことがあったが、誰も怒ったりしなかったし、起こしもしなかったのです。
今思うと、大変ありがたいです。
私が寝ていると、一連の仕事の流れが止まるので、他の会社にも迷惑をかけえいたはずなにに。
世の中で一番不幸な家族、
その当時、そう思っていました。
テレビを見ると、笑っていいともなどのバラェティー番組がいつもと変わらず流れているのが妙に不思議な感じがしたのを記憶しています。
いつもなら笑えることが、とてもばかばかしく思え、テレビの電源を切ったことさえありました。
同じような不幸な事故のニュースを見るたびにその時の自分と重なります。
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